パピン

新成人5年目

遅刻されるのは嫌いだけど

私はあまり時間に遅刻をすることがない。大学生のころ、1度だけ2時間遅刻するという最悪な事をして以降、遅刻は絶対にしていないと言い切れるレベルで遅刻をしていない。逆に最近は待ち合わせ時間ピッタリに到着できるように出発しても10分前には必ず到着してしまう身体になってしまった。

私は遅刻されることが死ぬほど嫌いだ。待ち合わせ時間はずっと前から一緒に決めているはずなのにその時間に間に合うように逆算して準備をしない・出来ないというのが本当に理解できない。「待つ」という時間は私にとって人生の中の一番無駄な時間なのです。

少し前、『やばい、30分くらい遅刻しそう。好きなことして待ってて』と言われた。……好きな事とは?たかが30分という時間の中で何が出来ると思っているんだろう。ウィンドウショッピングをするにもどこかで必要な物を買いに行くにも、待ち合わせ場所から目的地まで往復で何分かかって何分で買い物をしてとこちらも時間を気にしながら好きな事をしなければならないことを分かっていないのだろうか。それなら「今日は会うのやめよう」と言い渡し、自分の好きなように時間を使って好きな事をしたいと思うのが普通だろう。だったら30分間、何もしないで立っている方が疲れないし効率的なんだ。相手の遅刻の時間は私にとって本当に人生の無駄な時間であり、この無駄な時間を何度も作る相手とはもう会いたくなくなるのだ。

 

最近、仕事終わりに一緒にご飯を食べに行く友人がいる。思い返せばこの友人は”仕事終わり”に会う時は必ず遅刻をする。過去に3度、仕事終わりにご飯を食べに行ったが、一度も時間通りに来たことがない。私も社会人であるが故、どうしても外せない仕事があること、相手が確実に定時で終わらない職業であることを知っているので遅刻してしまうことについて責めるつもりは全くない。相手はいつも『一人で待たせてごめん』と言ってくれるが、私に謝るべき立場の人ではないとも思っている。だが私の人生の無駄が増えていくこの感覚に苛立ちは止まらず、この感情をどこにぶつければ良いか分からなくなっていた。

では、私のこの苛立ちの感情はどこから生まれてくるのか。それは「待つ時間を有効活用できない自分」なのではないかと考えた。相手の自己都合で遅刻をされるのは完全に相手に非があるので、怒りの矛先は相手になる理論はだれも私を責めることは出来ないだろう。しかし仕事が遅れてしまうことについては、定時で上がれる日だってあるし、逆も然り。相手が遅刻するのかしないのか不安定な状態で待ち合わせするのは私にとってもストレスになるとは思う。だが「また今日も仕事で遅刻するかもしれない」と私自身が先に過程して無駄な時間で出来る事リストを作っておけば、人生の無駄は減ると思った。

相手が悪くないし仕方がないが故に生まれる苛立ちの原因がどこにあるのか。根本は自分にあると最近思ってきた。なんだか成長した気分。

 

 

ジェネギャ

10月2日から札幌で高文連演劇発表大会が始まりますね。

私は今まで会ってきた人全員に、10000%の確立で「体育会系の部活だと思った」と言われる見た目をしていますが、演劇部でした。

演劇部って、1年間に何回も大会があるわけではなく、たった1回の舞台のために長い時間をかけて作品を作っていくので、作品にとても愛着が湧いていくし何なら自分たちが作った作品が一番だと勘違いしてしまうことも多いなと今になっては思います。

ちょうど1年前の今頃、高文連がありました。会社が大会会場に近い事もあって「久々に見に行くか~」と、当時私が高校生だった時に”強豪校”と言われていた高校の舞台を見に行きました。

 

去年の話なのでだいぶんうろ覚えなのですが、テーマは「AIと人間」。不登校の女の子の閉じた心を何とか開こうとする学校の演劇部員と、いつでも女の子の話を聞いて親身によりそうAIおじさんアプリの対比を1時間の中で表現していくという内容だったはずです。

強豪校だと思っていた期待していたばかりに、あまり響かなかった記憶です。自分の考えすぎる性格がベースにあるが故、話全体のストーリー、人それぞれの感情の動き方が全て軽すぎて「そんなわけないな」と思うシーンが何個かありました。

「人間の心を開くのは人間だ」という主張が最終的な終着地ではあると思うのですが、それが伝わらなかった。不登校 というテーマに対して、もっと深く掘り下げるべきだったと思うんです。人間関係に嫌気がさしたのか?朝起きるのが苦手でずっと寝ていたからなのか?家族絡みで学校に行きたくても行けなったのか、彼女がどういう思いで「学校に行かない」を選択し続けているのか核心的なことが分かりにくかったのがほんまに勿体ないなと……あと1時間で描写できるわけない……

物語の登場人物である演劇部員の中に不登校彼女の幼馴染がいるのですが、周りのサブキャラが濃すぎて2人がどんな関係性なのか、お互いにどう思っているのかも見えなかったのがもったいないと感じた。それであれば舞台に出る人間は不登校彼女、幼馴染、AIの3人だけに絞って、「AIは褒めて寄り添ってくれる達人だけど、本心が掴めなく対話を感じられない」「幼馴染は昔からの自分を知ってくれていて、思っている事を素直に伝えてくれる、対話を感じる」といった幼馴染とAIのギャップが彼女を翻弄するというか、「AI」という無機質な存在と、「幼馴染」という感情的に深いつながりを持つ人間との対比が作品の核になれば、もっと良い物語になったな…AIの善意と親身さが、逆に「人間らしさ」を欠いているという不自然さを強調して、幼馴染がどれほど感情的に「リアルな存在」なのかを浮き彫りにすることで、AIと人間の対比がより味深く表れる舞台を作るとめっちゃ面白いのではないかと思ったのです。。。。。

-

-

-

高校の時にみた演劇と社会人になってみた演劇は全く違った。観劇中、高校生の子たちは舞台をみてよく笑っていたが、私にはその笑点が良く分からなかった。多分、自分が高校生だったら笑っていたんだろうななどと思いながら。

あの空間はとても不思議です。同じ時間、同じ場所にいて同じ作品を見ているはずなのに全員の笑の沸点が違う、映画と違って、観客の反応が直接舞台にも影響を与える生の感覚、それが大きな魅力だと思うし、大好きなところです。

 

高校を卒業してからまだ7年しかたっていないけれども(もうそんなに経ったのか)、時間というのは本当に人間の考え方を変えるものだなと思ったんです。というか経験を積むというのは大切な事なんだなと…。高校生の彼らが7年後、同じ脚本を見た時に何を思うかが気になるところです。

INFJは感情を言語化するのが苦手な話。

人間関係を上手く続けていくためには、素直さが必要と動画や本で何度も見たことがあるが、それを実現できた試しがほとんどない。「やれ」と言われて簡単に出来るようなものであれば、私はたぶん今、天才ともてはやされる人間にでもなっていると思う(違う)。

先日、家族で高速道路を使って遠出をした。車を運転する方なら共感してくれると思うが、高速道路を1.2時間運転するとなると、何か気を紛らわせるものというか、運転以外に集中力を削げるなにかが無いと、目が点になり気が遠くなる現象が起きる。特に道内移動はあり得ないほど高速を長時間走るので、運転に慣れていない人はたぶん気絶するんじゃないかと思う。

それを防ぐために、私は自分が助手席に乗っている間は運転している人に積極的に声をかけたり(迷惑だったらごめん)、運転している人が好きであろう音楽を流したり、逆に自分が運転している時はよくしゃべるか好きな音楽を聴くようにしている。

先日の遠出は私が運転、助手席に父、後部座席に妹と母がおり、車内音楽操作担当は妹だった。私と妹の音楽の趣味は似ているようで大分違う。妹はアップテンポな曲、私はどちらかと言えば静かな曲の方が好きだ。運転中、高速道路を運転する時間が1時間を過ぎた頃だろうか、私の好きな曲が流れた。「ようやく音楽で気を紛らわせる」と思った瞬間、妹がその曲を飛ばしたんですね。マジか~と思ったが、運転に集中しているので” 曲を聴きたい ”と強く言うこともできず流した。すると直後に妹が『今の曲聴きたかった?』と聞いてきたんです。 やるやん…と思い「うん」と返したら、曲は戻さず別の曲を流し始めた。何で聞いたん????と思いましたが、まぁいいや…。

しばらくして、今後は妹が好きな曲が流れ始め、妹は熱唱し始める。私は別に好きでもないので、先ほどの妹の様に曲を飛ばしたんです。すると妹は「は?飛ばされたんだけど、聞いてたのに気分悪いわ~」と言ったのです。

私はここまで自分が思った感情をドストレートに口に出すことが無いので、” 気分悪い ”まで言われてイラっとした。でも、ここで怒っても運転に影響がありそうだし、「聴きたかったんだ(笑)」で済ませた。

 

本題に戻りますが、何故素直に感情を言語化できないのか。冒頭のように出来事を文字にするとよく理解できるのですが、

①相手の事を考えすぎている ②相手に期待しなさすぎ の2点だと考えます。家族でさえも思ったことを口にしないんだと思われる方もいるかもしれないのですが、逆に長く会話をしてきたからこそ、「この人にこれ言ってもな…」と諦めが入っていたりする。

 

①相手のことを考えすぎている。

これについては、私の実体験(高速は気が遠くなる)から、「相手もこう思っているんじゃないかな」という想像をベースに行動をしています。自分がされて嫌な事を相手にしないように意識を張り巡らせているため、考えすぎ~とか言われても考えないようにすることが無理なんですね。だって自分が嫌なんだから。①を無くすということはつまり、自分がされて嫌なことを無意識のうちに相手にしてしまっている可能性を大いに広げることであり、それは私自身の存在価値を下げるだけの行為となるのです(激重)。だから妹が運転している時は私の好きな曲ではなく、彼女が好きな曲を流すように努力をします。なんて健気なんだろうINFJって……………。

相手のことをベースに行動するので、自分の感情なぞ後回しになってしまう、ということが言語化から離れる原因となるのでしょう。

(妹が自身の好きな曲を流して熱唱している時に曲を飛ばす”自分がされて嫌なこと”を行う矛盾が生じていますが、私が運転をしている最中でかつ好きな曲を飛ばされる最悪なことされているので、私なりの抵抗というところです。)

つまり、この些細な気遣いに気付いてくれる人、同じような気遣いが無意識でも意識的でも出来る人にとても惹かれるのです。単純ですね。

 

②相手に期待しなさすぎ

①で申し上げたように、相手のことをかなり考えて行動しているが、気遣いがあまりにも細かく些細なので、気付かない人が99%だと個人的に思う。気付いたとしても「好きな曲がいっぱい流れるな~」「もしかして趣味合うのかな?」と思われる方が多いのではないでしょうか。私自身も気付かれない気遣いだと思っているため、同じことをして欲しいと思っても実現できないと腹をくくっているんですね。だから妹が私の好きな曲を飛ばしても、逆に私が曲を飛ばして怒られた時も「そういった気遣いは出来ない人」と思うだけなのです。どうせ私が曲を飛ばした理由を説明しても理解してもらえないし、1から説明するのも面倒だし、説明したところで『考えすぎ』で纏められるだけなんで、口にするだけ無駄だなぁと思います。妹を悪く思っているわけではないですよ!!!私情は入っていません。あくまで例として妹を挙げているだけなので。

 

そんなこんなで中々感情を言葉にするタイミングもない。「気分悪い」と伝えたら相手にどう思われるか、相手がどう思うかを率先して考えるため、「気分悪い」という言葉をいかにマイルドに相手に伝えられるか、脳内のあらゆる言葉の中から最適なワードを探し出し、伝える努力をするのです。結果、思っていることや今の感情を言語化するのに苦労するという流れだと個人的に推測しています。

性格上、ストレートに考えたことを話すことがもう難しいため、昔はよくやっていた姉妹喧嘩も疲れるだけだし、自分が我慢すればもう終わることなのでしなくなりました。その代わり文章での喧嘩はめっちゃ得意です。考える時間があるので、その場しのぎで発言する必要がない時のINFJは強いと個人的に思います。あ、でも本当に嫌いな人に対してはドストレートに「無理」「嫌い」といった言葉を伝えます。今後仲良くする必要もないので。もしくは一生関わらないように努力します。

 

だからこそ、私が願うのは「思ったことを素直に伝えられる人」ではなく、「思っていることが同じ・気遣いや行動の意味を理解してくれる人」に出会いたいんです。

まぁ出会った事なんてないですけどね。私の周りにINFJが一人もいないので

人とお付き合いをしない生活をしてきた理由

自分が今まで人とお付き合いをしない生活をしてきた理由をずっと考えていたが、最近ようやく結論ついてきたので日記に書こうと思います。

 

結論からいうと「終わりがあるから」だと思った。

学生の時は遊び半分で付き合う人が多かったし、高校生から付き合って結婚まで続いた人の割合は限りなく低いのではないかと思っている。

そもそも私は人を信頼するまでに物凄く時間をかけるタイプだ。別に誰かに裏切られたなどの経験は特に無いが、もし自分自身が信頼できると思った人が世間的に良くないことをしていたり、羽目を外していたとしたら、私は自分を信じられなくなるからだ。自分の決断や判断を誤りたくないから時間がかかるのだと思う。まぁ随分と自分勝手だなと思うが、これに関してはもう許して欲しい。そして時間をかけて信頼できる人を獲得してきたのだ(?)。だからこそ縁は切りたくないし、一生大切にしたいと思っています。

今の話で何となく感づいている方もいるかもしれないが、一生大切にしたいと思った人とお付き合いをするとする。付き合いには終わりがあることを知っていると、付き合いたい意欲<大切にしたい人が離れるのは嫌 という気持ちのバランスに勝敗が出て、付き合うまでの勇気が出ないんですね。そういうことです。信頼をしすぎていて、付き合いたいという気持ちすら湧いてこなのだと思います。

だからこそ、時間をかけてようやく誰かと付き合うというよりは、「うわっ、この人超格好良い!!付き合いたい!!」くらいのノリの方が意外と私には合っているのかもしれないなと、最近感じました。でもそのようにしてお付き合いした人も時間が経つと大切な人になるのには変わりないんで、縁は切りたくなくなってしまうんだなと思いますが。

 

そんなこと言ってますけど、私の大切な誰かは誰かを大切にしていて、思いが一致するとお付き合いに至るのかと考えると、私めっちゃフラれてばっかで可哀想だなと今ちょっと思った。可哀想すぎないか?流石に

 

 

 

 

人それぞれの自己中

久々に時間が出来たのではてなブログを開いてキーボードをカタカタしています。

いつも時間がないない言っているけど、意外とあって、その時間を有効活用できていないからもっとないのかなとか適当な事をほざいている。でも今後も有効活用できない時間なんてゴロゴロあるんだろうなと思って、少々諦めている。人間ぼーっとする時間も必要かなって思うんだ私は。

 

そういえばこの前友人と【初対面の人とLINEを交換できるか】という議論に花を咲かせた。

私は無理だ。個人的に、あらゆるソーシャルメディアサービスの中でLINEは特にパーソナルスペースの狭いサービスだと思う。自分の人生をとても見られている気分なので他人に教えたくないのです。たとえブロックしたとしてもLINEのアイコンを変えれば相手に速攻バレるのだ。中々厳しい。それなればアカウントの作成・削除の自由度が比較的高いInstagramを交換したいと思う。主アカウントではなく、サブアカウントを交換するのだよ。もしくはその場で新しくアカウントを作成して交換するという手もある。

そうして私はいかにLINE交換をせずに人と関わりあってゆくかを考えて生きてきた__________________。

 

そんな主張をしていると、友人が「その人のためにアカウントを作って交換するのは相手からしたらめちゃくちゃ印象悪いからしたくない」と返してきた。

…………………確かに。めっちゃ確かに。確かに私がされたら嫌だな。露骨だもんな、コイツ私と連絡先交換する気ないやんみたいな感じだもんな、さすがに納得した。

それはそうだな、と深く納得していたら、加えて友人が「でも私は相手から見た自分の印象が悪くなる、が一番の理由だから身勝手なのだよ」と言ってきた。

 

私は”私が嫌だから”という自己中でLINEを交換しない方法を考えているが、友人は”私がこう思われるのが嫌だから”という自己中でLINEを交換しない方法を否定してきたのが、個人的にはすごく面白くて、人によって1つの質問による解答が同じ自己中でもこうも真逆になるのかぁと中々しびれた時間を過ごしました。

 

 

だから議論はやめられないってばよ

生涯道外住みは嫌だ

最近、中学の同級生、高校の友達と遊ぶことが増えた。以前の私なら、「人様をお誘いして迷惑ではないか……断られたらどうしよう」などと余計な事を考えていたが、最近はそんなこと何も考え無くなり、むしろ積極的に人に会おうとしている自分がいて成長を感じる。やはり昔からの友人は会えるうちに会っておきたいなと。でもやっぱり人に「会いたい」という素直な気持ちを述べるのには抵抗感があるというか、少し恥ずかしくなるのはここだけの話にしておく。あと、やっぱり断られると悲しいので根気強く誘い続けるのは私は難しそう。

ではなぜ私がこんなにも人に会おうと考え始めたかというと、皆が道外に就職したり結婚したり、今まで同じだった生活範囲内から少しずつ遠ざかっているのを肌で感じているからです。高校の友人は札幌に残ることが多いが、中学の友人は半分が道外に行き仕事をしている。道外にでて一人暮らしをして働くという発想は就職活動期の私には全くなかったため、友人に会うたびにすごいなぁと感心している。私は一人暮らしは絶対に無理だ。寂しくて仕方がない。ぜってぇ無理。

 

1月の上旬、東京で本当に久しぶりに会った中学の友人が、久々に私と話をすることが出来、嬉しく思ってくれたからなのか、「東京に来ないの?」と少し悲しそうな声で何度も話しかけてきてくれた。私は『う~ん、旦那がいたらね』と返したが、それは夢のまた夢の話だ。友人が私をそこまで東京に連れてきたいと思うのであれば、何かしらの契りを設けていただかないと困る。急に東京に放り出されて一人で生きろなんてそんな無茶な。まずは地元から進めさせてくれよな。

東京は確かに夢がある。何でもそろっているし、旅行だって札幌よりも遥かに楽だ。旅行が好きな私にとってそこだけは非常に羨ましい。航空券が安すぎる。羨ましい。

それでも私は札幌が好きだ。とにかく静か。穏やかな日常を過ごしたいがある程度ものはそろっていてほしいという私の需要と札幌が提供する供給がものの見事に合致しすぎている。私は札幌マーケティングの超ターゲット層にいるのではないか……?

 

だた、東京で働くというのは若いうちにしかできないことなのかなとも思う。Uターン就職という言葉はよく耳にするが、その逆は一回も聞いたことがない。あるのかな、あるか流石に。

男女の友情が成立する境界線

一生結果の出ない議題ではないでしょうか?私は友人と遊ぶとき、話のネタが無くなった場合は、きのこの山たけのこの里どっちの方が良いか議論のノリでこの議題をみんなに投げる。決着を付けたいわけでもなく、相手の主張を聞くのが楽しいだけだ。あ、ちなみに私は成立する派です。

待てよ、きのこの山たけのこの里議論は軽いノリで投げていいものなのだろうか…(無視して)

 

成立しない派の友人は、『サシでご飯食べに行く異性は「自分が気になる人」が前提であって、別に進展して欲しいなと思わなかったらまず会わない』ということだった。なるほど。なら、まだそういった進展を欲することのなかったであろう小学生の時のずっと仲良い、幼馴染ってわけでもないような異性とはサシでご飯を食べには行かないのだろうか。幼い頃から仲の良い人は一生「気になる人」になることが無いのであればそれはそれで可哀想な気もする。

もう一人の知人に聞いてみたらどっちも派だった。ずっと友達だったけど、結婚しましたとか。それって友情じゃなくなるよねという主張だった。確かに、友情ではなくなるなとは思う。ただ、恋愛感情と愛情(結婚)って全く違うと思う。好き嫌いでは片づけられなくなる領域まで来ると、それはもう情で収まる話にはならないだろう。私が知りたいのは男女の友情と恋愛感情の境界線について。あ、でも友情→愛情に変化する間に恋愛感情が含まれるのであれば議論の余地が……ありますね。

--

ちなみに私は友情成立する派です。なぜそう思っているかというと、男女での区別をすることが嫌だというのが大前提にあります。あくまでもその人を「一人の人間」として見て、尊敬できる、信頼のできる人だとしたら私は男であろうが女であろうが恋愛感情とは違った感情が生まれると思っている。ただ、その感情が「友情」になるのかは不明だが、ここでは友情として定義させていただくこととする。

そういっている私も友情関係は本当に限りがあると思っている。ある時に私自身がその人を男の人としてみた時、相手が私を女の人としてみた時に、私が定義する「友情」はすでに破壊されているからだ。綱渡りをするかのような不安定さは拭えないが、私はその友情を理解してくれる人間が1人だけ存在するので、大切にしてゆこうと思っている。どちらかが壊すのかもしれないが、それはそれでその時に考えよう。